婚活市場の話を、人づてに聞くことがあります。求められることばかりを並べて、応じない相手を「分かっていない」と詰める。こちらが何か言葉を返すと、今度は被害者の顔に変わる。先に噛みついたのが自分だったという経緯は、都合よく忘れられているようです。攻撃と防御を、同じ会話の中で自在に切り替える人を、これまで何度か見かけてきました。
「ATM」という言葉を使う人もいます。財布として見られているという感覚は、男女どちらの側にもあるのだろうと思いますが、少なくとも自分の周りで聞く話は、一方的な負担を当然のように要求する側の話が多いように感じます。
ジェンダー論というのも、突き詰めれば便利な道具のひとつなのだろうと思います。家事や費用の分担を、状況や気持ちに応じて柔らかく調整するのではなく、規則のようにきっちり当てはめようとする。誰が何をどれだけ負担すべきか、その線引きにこだわるあまり、目の前の相手をどう思いやるかという、もっと単純な部分が後回しになっている。そういう場面に何度か遭遇しました。
私自身は、その枠組みから距離を置くことを選びました。今交際している相手との関係では、思想や立場のラベルにはあまり関心がありません。感謝の気持ちがあるか。頼まれる前から、困っている方に手を貸そうとするか。判断の基準は、それくらいです。伝統的か、進歩的かという話よりも、その人がどう動くかを見ています。
海外に目を向けることは、楽な選択ではありません。英語の勉強は今も続けていますが、思うように進まない日もあります。それでも、自分の生活と心の平穏を、自分を尊重しない誰かに差し出すより、時間をかけて別の環境を整えるほうが、私には合理的に思えます。資産も、労力も、限りがあります。それをどこに使うかは、自分で決めたいと思っています。
少子化対策の話が出るたびに、少し奇妙な気持ちになります。共働きを当然とし、時間も心の余裕も削られた状態で、子供を育てることのリスクを正しく見積もるようになった人たちに対して、上辺だけの給付や啓発で考えを変えさせようとしている。そのやり方で状況が変わるとは、私には思えません。
その先がどうなるのか、考えることがあります。子供を持たない選択をする人や、国を出ていく人が増えれば、国としては何らかの形で歯止めをかけたくなるはずです。個人の自由な選択を、これまでより制限する方向に進むのではないか。反出生主義的な発言を取り締まるような空気が生まれるのではないか。今のところは想像の範囲ですが、まったくありえない話だとも思えません。そうなる可能性を、今のうちから頭の片隅に置いておいた方がいいのではないかと思っています。