なぜ「行動できない」のか? 氷河期世代が抱える見えない足枷
2025年も8月が終わり、時間の流れの速さを実感しています。この一ヶ月は、これからのこと、特に海外移住について考える機会が多くありました。同時に、自分自身の内面と深く向き合う時間でもあったように感じます。
就職氷河期世代が「このままでいいのだろうか」という漠然とした閉塞感を抱くのは、ある意味で当然のことかもしれません。社会や会社に対して抱く諦めに似た感情は、長年かけて心に染み付いてしまったものです。
しかし、問題の根はそれだけではないようです。なぜ、具体的な一歩がこれほどまでに重いのか。振り返ってみると、過去の経験が大きく影響していることに気づきます。例えば、かつて抱いた夢や目標を誰かに話した時、それを一笑に付されたり、無責任な正義感で否定されたりした経験。そうした「ドリームブレーカー」との遭遇が、心に見えない足枷をはめてしまったのではないかと思っています。「どうせ自分には無理だ」という根深い自己肯定感の低さも、その足枷をさらに強固にしています。
「自己肯定感」という名の亡霊。捨てても蘇る感情との戦い
最近、「自己肯定感を高めよう」という言葉をよく目にします。しかし、私はこの風潮に強い違和感を覚えており、とうの昔にその考え方自体を捨てました。自己肯定感を高めようとすることは、常に他者から評価される自分を意識することに繋がり、かえって行動の妨げになると判断したからです。
しかし、問題はそう単純ではありませんでした。
例えば、私が継続している英語学習。明確な成長を感じることは稀ですが、ごくたまに「少しは上達したか?」と感じる瞬間があります。その直後、私は「これは勘違いだ」と即座にその感覚を否定し、切り捨ててしまいます。なぜなら、そうした僅かな手応えをきっかけに、捨てたはずの「自己肯定感」という亡霊が、いつの間にか手元に蘇ってくるからです。
そして、その亡霊が差し出す物差しで無意識に自分を測り、次の瞬間には「大して進歩していない」と勝手に落胆している。この無意味なループに気づくたび、自分自身にうんざりします。
この感情は、目標達成のノイズでしかありません。私にとっては不要なものであり、二度と意識に上らせてはならないものです。だから、そうした感情が少しでも湧き上がってきた時は、心の中で「で?」と呟き、その存在を徹底的に無視します。これは、行動したという「事実」だけを積み上げるために、邪魔な感情を破壊し続ける作業です。
捨てても、捨てても、ふとした瞬間に蘇ってくる。その都度、意識的に叩き潰す。この内なる戦いは、まだ当分終わりそうにありません。
「無言実行」でいい。目標を語らず、淡々と準備を進める
目標を公言しないこと。それは、ドリームブレーカーからの自己防衛策です。他人の無責任な意見や評価から自分を守り、精神的な消耗を防ぐための、極めて現実的な戦略だと考えています。特に私のようなHSP気質を持つ人間にとって、外部からの不要な干渉は、思考を停止させるほどの毒になり得ます。だからこそ、私は「秘密主義」を肯定します。
海外移住という目標も、誰かに具体的に語る必要はありません。今はただ、淡々と準備を進めるだけです。幸い、現代は誰にも知られることなく、PC一つで始められることが数多くあります。海外の情報を集める、語学のオンラインレッスンを受ける、資金計画をシミュレーションする、副業をはじめる。これらは全て、一人で完結できる確かな一歩です。
このブログとは別に、水面下で個人的なプロジェクトの準備を進めています。穏やかに生きるための布石となる取り組みですが、詳細をここで語るつもりはありません。周囲からの不要な介入を排除するため、今は英語学習と並行して静かに進め、9月中に形にし、10月には公開できればと考えています。
行動の先に「結果」はなくても「事実」は残る
結局のところ、考えるだけでは何も変わりません。これは、私が常に自分自身に言い聞かせていることです。結果がどうであれ、行動を起こさなければ、現状が変わる可能性はゼロのままです。
英語学習に停滞感を感じていたとしても、「学習を継続した」という事実は残ります。個人的なプロジェクトがまだ未完成だとしても、「準備を進めた」という事実は確かに積み重なっています。目に見える成果や成長実感といった、いわば「感情」の報酬がなくても、行動したという客観的な「事実」だけが、未来の自分を支える唯一の資産となるのです。
成長したという感覚さえも、時として私を苦しめます。それすらも、不要な感情として捨て去るべきなのかもしれません。ただ、行動したという事実だけを受け入れる。その先にこそ、道は拓けると信じています。