用事の合間に一時間ほど空いてしまい、駅近くのカフェに入りました。外出時はイヤホンと伊達メガネが手放せません。雑音を物理的に削り、視界に枠をつくっておくと、それだけで折り合いがつきます。これで困っていないので、変えるつもりもありません。
カフェモカを頼んで、窓際の席で少しぼんやりしていました。以前と比べてカフェに入る回数は減ったような気がしていましたが、こうして座ってみると、案外そうでもないのかもしれません。
ふと、先日上司から聞かされた話を思い出しました。リモートワークの運用を見直す方向で検討しているという話でした。働きぶりが見えづらく信用を担保しにくい、というのがその理由で、見直しに応じられない場合は雇用の継続そのものが難しくなるかもしれない、というニュアンスを含んだ話でした。自分が直接の対象だったわけではありませんが、ひととおり自分の働き方を振り返るきっかけにはなりました。
そのとき、もうひとつ思い出したのが『失敗の本質』のことでした。旧日本軍の組織的失敗を学術的に分析した本で、細かい内容はもう覚えていません。ただ、ひとつだけ印象に残っている話があります。日本軍の組織では、上下の間に「相手も当然わかっているだろう」という前提があって、確認や意思疎通を省いてしまう。その結果、認識の齟齬が生じ、指揮や作戦遂行に支障をきたしていた、という指摘でした。言わずとも察するべきだ、という空気が組織の上に乗っていた、と読んだ記憶があります。
コロナを機にリモートワークに移行したとき、この話を思い出しました。それ以来、「それくらい言わなくてもわかるでしょう」と思われそうなことでも、いちいち確認を取るようにしています。相手の「わかっているだろう」を前提にしない。齟齬による手戻りをあらかじめ潰しておく。それだけのことです。そもそも私は、人の意図を察する能力が高いほうではないと自分で思っています。だから細かく確認する。能力の不足を、手続きで埋めているだけです。
仕事に関するやりとりだけは、密に取ります。レスポンスも早めに返し、相手が次に必要としているであろうものを先回りで揃えておく。早めに仕上げて確認を回し、修正できる時間を残しておく。社会から距離を置いていることと、仕事の連絡を疎かにすることは、私の中では別の話です。その切り分けくらいはできるつもりでいます。部署単位の飲み会には参加しませんが、それで業務に支障が出たことはありません。
同僚が私のことをどう思っているかは知りません。知る必要もありません。ただ、私が継続してリモートで働かせてもらえているのは、おそらく仕事のやりとりにだけは手間を惜しまずにいたからだと思います。仕事以外の雑談や付き合いを積極的にしない人間でも、業務上のコミュニケーションさえ詰まらせなければ、信用は最低限維持される。逆に言えば、そこを怠った人から順に、見えない場所で評価を落としていたのだろうと思います。
リモートワークを巡る議論は今後も続くのでしょうが、結局のところ評価されているのは働き方そのものではなく、そこに乗っている個々人の手数なのではないかと思っています。