最近、自分が何をやろうとしているのかを、改めて考えることがありました。
資産形成を続けている。副業の可能性を調べている。海外に拠点を作ることを検討している。傍から見れば、お金に執着している人間か、日本に見切りをつけた人間か、そのどちらかに映るかもしれません。
ただ、振り返ってみると、少し違う気がするのです。
私はお金持ちになりたいわけではありません。豪邸や高級車への興味は薄く、お金そのものが目的というわけでもない。ただ、選択肢を持ち続けるための手段として、資産を積んでいます。嫌な環境から離れられること。理不尽な状況から撤退できること。無理に誰かに従わなくても、生活を続けられること。私にとって資産とは、そのための離脱権のようなものです。
海外への関心も、夢を見ているわけではありません。
海外にも問題はありますし、日本より良い国が確実に存在するとは思っていません。ただ、日本以外の選択肢がまったくない状態を、避けておきたい。船が沈むと決まったわけではありませんが、もし沈み始めたときに逃げ道がなければ困ります。だから語学を続け、海外との接点を少しずつ作り、移動できる状態を維持しようとしています。重要なのは移住そのものではなく、移住できる状態でいることです。
人間関係についても、よく誤解されます。
私は人間が嫌いなわけではありません。今はパートナーもいますし、このまま大きな問題がなければ一緒になってもいいと思っています。ただ、社会が用意したテンプレートには、あまり興味が持てません。結婚したら子供を作るべき、子供がいないなら結婚する意味がない、家族とはこうあるべき----そうした定型文が、前提として存在していることへの違和感があります。人間関係が先にあって、制度は後からついてくるものだと、私は考えています。結婚そのものを否定しているのではなく、関係の形を外部から決められることへの抵抗が、どこかにあるのだと思います。
社会との距離感も同じです。
社会を変えたいとは思いません。誰かを攻撃したいわけでもない。ただ、これまでの経験から、社会というものを全面的には信用できなくなりました。就職氷河期の頃、困っているときには自己責任と言われ、社会が困り始めると今度は協力を求められる。そういう光景を見続けると、熱心な当事者にはなれないものです。
だから今は、観察しています。
この国がこの先どうなるのか、社会が個人への圧力を強めるのか、それとも意外な形で適応するのか。分断が進むのか、あるいは何かが変わるのか。予言でも分析でもなく、自分の仮説が当たるかどうかを、ただ見ています。そして、その結果がどう転んでも、自分が動ける状態でいるよう、準備を続けています。
結局、私が求めているものは、自由ですらないのかもしれません。
もっと正確に言うなら、「自分で決められる状態」です。どこに住むか。誰と生きるか。どんな働き方をするか。それらを外から決められず、必要になればいつでも離れられること。資産形成も、副業の模索も、海外への準備も、すべてそのためにやっています。
成功を目指しているというより、拘束を避けているのだと思います。
社会が困ったときに頼られるより、自分の判断で生きる方を選びたい、と私は思っています。