先日、友人に誘われ、豊洲のラムセス・ミュージアム at CREVIA BASE Tokyoで開催されている「ラムセス大王展」に行ってきました。歴史は好きなのですが、これまで古代エジプト史に深く触れる機会はほとんどありませんでした。「この機会を逃すと、次に日本で見られるのはいつになるか分からない」という言葉に後押しされ、足を運んだ次第です。
この種の展示は撮影禁止が通例ですが、今回はフラッシュを使用しなければ撮影が可能でした。そのためか特定の鑑賞ルートも設けられておらず、人々は思い思いの場所で足を止め、熱心にスマートフォンを向けていました。
私は人の少ないタイミングを見計らっては展示物を撮影し、説明文を一つひとつ読みながら、ゆっくりと見て回りました。
黄金のマスクや棺、様々な像が並ぶ空間で、3000年以上前の人々の「死生観」に思いを馳せているうちに、ふと自分自身の命が尽きる時のこと、そして「誰かの記憶に残る」ということについて、考えさせられました。
3000年の時を超えて問いかける、古代エジプトの死生観
会場には、ラムセス2世本人のものだけでなく、彼の母親や部下、当時の上流階級の人々が使用していたとされる棺や色鮮やかな装飾品が数多く展示されていました。
ヒエログリフで描かれた王と神々の絵を見ていると、彼らが死後の世界で神々と良好な関係を築きたいと願っていたのだろうと想像が膨らみます。もちろん、これは何ら根拠のない私の勝手な解釈ですが。
現代人の感覚からすれば非科学的かもしれませんが、彼らは死後、魂が再び肉体に戻り復活できると本気で信じていたのでしょう。
だからこそ、ミイラという形で身体(依代)を保存し、来世で使うための豪華な副葬品と共に、これほどまでに堅牢で美しい棺に収めた。その執念にも似た徹底ぶりは、「死とは何か」という根源的な問いを、現代を生きる私に投げかけてくるようでした。
王が求めた「永遠」という名のレガシー
ラムセス2世は、当時の平均寿命が35歳程度だった中で、90歳という異例の長寿を全うしたそうです。
彼が「生ける神」として君臨していたというのも頷けます。彼は自身の権勢と名声を後世に伝えるため、エジプト各地に巨大な像や神殿を数多く建造しました。有名なアブ・シンベル神殿もその一つです。
彼の行動を見ていると、彼にとっての「永遠の生」とは、単に肉体が復活することだけではなかったように思えます。自身の偉業を物理的な形で残し、人々から忘れ去られないこと。それこそが、王として求め続けた「永遠」の本質だったのかもしれません。神殿の建設には、専門の職人や芸術家たちを住まわせるための村まで作って従事させていたというのですから、その規模と情熱は計り知れません。
ひるがえって、私の命が尽きる時
3000年以上も前に、国という巨大な共同体を動かし、壮大な建築物を残して「永遠」を追求した王。その圧倒的なスケールの歴史を前にすると、現代を生きる私という一個人の存在がいかに小さく、儚いものであるかを痛感させられます。
私という人間の命が尽きた時、私はどこで目覚めるのだろうか。古代エジプト人のように、来世での復活を信じることは、残念ながら私にはできません。むしろ、今の生活の延長線上に復活があるのだとすれば、それは喜ばしいことなのだろうか、と考えてしまいます。
「誰かの記憶に残る」という、儚い願望
現代を生きる人間にとって「生き続ける」とはどういうことなのでしょうか。「誰かの記憶に残り続ける限り、その人は永遠に生き続けられる」という言葉を時折耳にします。しかし、その観点から考えても、私が長くは生きられないであろうことは明白です。私を知る人々もまた、いずれはいなくなってしまうのですから。その連鎖が数世代も続けば、私という人間が存在した痕跡は、この世界から綺麗に消え去ってしまうでしょう。
それでも、今を生きるための小さな指標
誰もがラムセス2世のように、後世に語り継がれるような偉業を成し遂げられるわけではありません。むしろ、歴史に名を残すことなどない、大多数の人間の一人として私達は生きています。そうであるならば、人生の価値を測る指標は、彼らとは全く別の場所にあるはずです。
壮大な歴史や他人の評価軸ではなく、自分自身の価値観に静かに立ち返ったとき、私の死後、何が残るのか。
その答えは、今の私にとっては「平穏」という二文字に集約されるのかもしれません。 少なくとも今は、パートナーの記憶の中に残り続けることができれば、それで十分に満足だと思っています。歴史に名を刻むことも、多くの人から惜しまれることも望みません。ただ、私が存在したという事実が、大切な人の心の中で穏やかな記憶として少しの間だけでも残り続けてくれるのなら、それは私にとって何物にも代えがたい価値を持ちます。
ラムセス大王展が、私に残したもの
結局のところ、この展示会で得たものは、古代エジプトに関する歴史の知識だけではありませんでした。
3000年以上前の王が抱いた「永遠」への渇望に触れたことで、逆説的に、私自身が何を大切にし、どのような死生観を持っているのかを再確認する、非常に貴重な機会となりました。
壮大な歴史も、日常の中の小さな気づきも、すべては自分の現在地を照らし出すための道標なのかもしれません。