AI検索への移行と、社会的なノイズキャンセリング

落としどころは「隠者のようで隠者ではない」

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最近、調べ物の手段をGoogle検索などの従来の検索エンジンから、GeminiやChatGPTといった生成AIへ主軸を移しました。

いわゆるDXだとか、業務効率化といった前向きな理由ではありません。これは私にとって、精神衛生上の切実な「自衛」措置です。従来の検索結果に付随してくる膨大なノイズを回避したいというのが正直なところです。

検索結果に付着する「感情」というノイズ

検索するたびに気づくのは、そこに本来不要な「他人の感情」が付着しているという事実です。

HSP気質ゆえか、私は画面越しに伝わってくる「見知らぬ誰かの怒り」や「押し付けがましい正義感」に対して過剰に反応してしまいます。知りたいのは「事実」だけなのに、検索結果には「こんな制度は許せない」「対応が悪かった」「こうあるべきだ」という、私には関係のない他者の感情的な排泄物がセットで視界に入ってくる。

これは私にとって、微量ながら確実に蓄積する毒です。

その点、AIは優秀です。彼らは感情を持ちません。私が求めた事実だけを抽出し、無機質に提示してくれます。もちろんハルシネーション(嘘の情報)のリスクはありますが、裏取りをする手間のほうが、感情的なノイズをかき分ける精神的コストに比べれば遥かに軽い。彼らは私にとって、汚染された情報の海から真水だけを濾過する高性能なフィルターとして機能しています。

「後悔してほしい」という社会からの干渉

情報を遮断して静かな時間を過ごすうちに、あのノイズの正体について一つの仮説を持つようになりました。あれは単なる雑音ではなく、社会からの意図的な「干渉」なのではないかと。

今の日本社会には、既定のレールを外れた人間、あるいはそのレールに乗ることを拒否した人間に対し、「後ろめたい感情を持ってほしい」「後悔してほしい」という無言の圧力が満ちているように感じます。

国全体がゆっくりと店仕舞いに向かい、閉塞感が漂う中で、枠の外で自分らしく淡々と生きている人間は、「苦労を分かち合わないズルい存在」として映るのかもしれません。ネット上に溢れる正義感や怒りの多くは、そうした逸脱者を矯正し、自分たちと同じ場所まで引きずり下ろして後悔させたいという、社会の集合的無意識が可視化されたものでしょう。

検索窓を通して世界を見るということは、そうしたどす黒い怨念のようなものに、無防備に触れ続ける行為だったのです。

デジタルな防壁と、半径数メートルの平穏

そう考えると、AIという防壁越しに世界を見る今のスタイルは、社会に対して強力な「ノイズキャンセリング」を常時オンにしている状態と言えます。あるいは、ATフィールドのような絶対的な拒絶領域を展開していると言ってもいいかもしれません。

これは単なる人間嫌いの加速ではなく、環境に適応するための「進化」だと捉えています。

向こう側は「社会の一員なのだから自分事として考えろ」と一方的に干渉してきますが、私にとって彼らの事情など、本当に関係のない話です。しかし距離を置くだけでは不十分でした。干渉されないための最適解は、こちらの存在自体を消すこと、つまり社会に対して自分を「不可視化」することです。

フィルターによって静寂を取り戻した世界で、私は今、セブにいるパートナーとの未来のために淡々と準備を進めています。いずれ彼女と二人、穏やかな日々を過ごす。それ以上の「正解」など、今の私には必要ありません。

私が守るべきは、この国の未来でも社会の常識でもなく、私の手が届く範囲にある「半径数メートルの平穏」だけなのです。

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