ここ数日、激しい偏頭痛に見舞われていました。原因は定かではありませんが、ようやく痛みが引き、思考の明瞭さが戻ってきました。
ローカルAI構築の泥臭い現実
思考力の低下を感じつつも、ほどほどに休みながらPCの前に座り続けていました。現在進めている、ローカル環境での画像生成AIおよびLLM(大規模言語モデル)の構築と検証を行うためです。限界が来たら寝る、というサイクルでした。
実際に手を動かして環境構築を行い、プロンプト(指示命令)を調整していると、痛感することがあります。それは「AIを使えば手放しで楽ができる」という言説が、いかに幻想であるかということです。
単にキーワードを羅列すれば、それらしい出力が返ってくる時代は終わりました(あるいは、最初からそんなものは存在しなかったのかもしれません)。複数のモデルごとの特性、学習データの偏りや、トークンの解釈の癖を理解し、こちらの意図を緻密に言語化する論理的思考が求められます。
現在、SNSなどで華々しい生成結果を公開している先行者たちは、裏で膨大な試行錯誤という「泥臭い道」を通っているはずです。エラーを吐き出し続けるコンソール画面と睨み合い、パラメータを微調整し、何度も再生成を繰り返す。その地味な作業の果てに、ようやく思い通りの出力を得ているのだと推測します。
「精神的負債」としての対人コスト
今の私にはまだ、脳内のイメージを完全に具現化する技術はありません。しばらくは研究と検証が必要です。
しかし、この学習コストを払う価値は十分にあります。画像生成に限らず、AIツール群を使いこなすことができれば、本来ならチームで動かすべきプロダクトやプロジェクトを、たった一人で完結させられる可能性が開けるからです。
これは私にとって、単なる業務効率化以上の切実な意味を持ちます。
私のようなHSP気質の人間にとって、他者の感情を読み取り、空気を読み、無駄な調整を行うコミュニケーションコストは、莫大な「精神的負債」でしかありません。誰かの機嫌を損ねないために言葉を選び、意味のない会議で時間を浪費し、同調圧力にすり減る。そうやって生み出された成果物に、どれほどの付加価値があるのでしょうか。
対してAIは、文句を言いません。どれだけ修正を命じても感情を害することはありませんし、こちらの顔色を窺うこともありません。ただ命令されたロジックに従い、結果を出力します。人間という不確定なノイズを排除し、一人で完結できる領域を広げることは、私にとって最強の防衛策となります。
「苦労教」からの静かな退出
日本社会には、依然として「汗水を垂らして苦労すること」自体を美徳とする風潮が根強く残っています。
過程の努力を可視化し、自分がどれだけ大変な思いをしているかを周囲にアピールしないと、仕事として評価されない。あるいは、定時で涼しい顔をして帰ることが「悪」とされるような空気感。いまだに「苦労教」がはばをきかせているように思います。
しかし、外に目を向ければ、過程の苦労よりも「結果」をシビアかつシンプルに評価する市場が広がっています。精神をすり減らして日本の「苦労教」に付き合い、互いに足を引っ張り合うバケツの中で消耗するよりも、AIという武器を磨き、結果だけを見てくれる外の世界へアプローチする方が、生存戦略として合理的です。
引き続き、英語学習とAI活用。この2つを軸に、誰にも邪魔されない場所へと静かに退出するための準備を淡々と進めていきます。
成果物に対して、どれだけ汗をかいたかが問われる社会と、成果物の質のみが問われる社会。どちらに身を置くことが、限られた人生の時間において合理的か。私の中で、その答えはとっくに出ています。