無色透明

息ができる場所を探している

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最近、自分が社会から距離を置きたいと感じている理由について考えていました。
ただ、これは単純な人間嫌いではありません。

花を見たいと思います。温泉にも行きたい。写真を撮りたいし、静かな宿でぼんやり過ごしたいとも思います。旅先で買ってきたバナナチップスをつまみながら、小さな生活感を味わう。そういう感覚はまだ残っています。

世界との接続そのものを拒絶しているわけではない。拒絶したいのは、もっと別のものです。
常に誰かと繋がっていることを前提とされる空気。必要以上の干渉。お互いを監視し合うような緊張感。「正しさ」を競い合う会話。こちらの振る舞いを矯正しようとする圧力。感情の処理を暗に求められること。そういったものに、私はもう付き合えなくなってきたのだと思います。

特に最近は、ルールが増え、リスク回避が優先され、炎上を警戒し、「迷惑をかけるな」という声が至るところから聞こえてくるようになりました。都会か田舎かの違いではなく、日本全体の空気として、そうなっている気がしています。

ゆっくり写真を撮る。ぼんやりする。無目的に歩く。静かに座る。そういう余白のある時間ですら、どこか居心地が悪くなっている。誰に何を言われたわけでもないのに、「ここにいていいのか」という感覚が薄くまとわりつく。
だから最近は、外に出るときも無色透明でいたいと思うようになりました。目立たない。印象を残さない。説明しない。ラベルを貼られない。長居をせず、静かに振る舞い、必要以上に自分のことを話さない。

ただ、これは感情を消したいという話ではありません。過剰に自分をさらけ出したくない、という感覚に近い。
本来は、人と関わることに大きなエネルギーを使うとか、感情的なやり取りに付き合うのがしんどいとか、常に誰かと繋がっていることが前提の環境がきついとか、そういう話です。でもそれを口にすると、「甘えだ」「考え方を変えろ」「もっとこうすべきだ」と始まることが多い。

だから最近、「人付き合いが苦手で」のような雑な一言で会話を終わらせる人が増えているのも、少しわかる気がしています。説明したところで矯正か説教が返ってくるなら、最初から説明しないほうが合理的です。

今の社会では、ハラスメントや炎上、感情のトラブル、距離感の見誤りといったものが大量に可視化されています。その結果、「まず警戒する」「まず距離を取る」「深入りしない」が初期設定になっている。これは人間が嫌いだという話ではなく、関わることにかかるコストが高くなりすぎたという話なのだと思います。

正直なところ、「この国にいる限り、取られ続ける」という感覚があります。税も、時間も、気力も。そしてその不信感を口にすれば、「被害妄想だ」「努力が足りない」として処理される。その態度そのものが、さらに距離を広げているように見えます。

ただ、私は社会を壊したいわけではありません。改善運動にも、戦いにも、改革にも、もう期待していない。怒りをぶつけたところで、さらに削られるだけです。感覚としては、「このゲームから降りて、別のゲームに移る」に近いのだと思います。

結局、私が求めているのは、完全な孤独でも、すべての人間の否定でもないのだと思います。
たぶん、息ができる場所を探しているだけです。
それは環境の話でもあり、人との距離の話でもあり、周囲の空気の話でもある。全部を含んでいます。そして今の日本では、その「息ができる感覚」が少しずつ失われているように感じています。

だから私は、目立たず、静かに、なるべく少ない接点で暮らす方向へ向かっているのでしょう。一方通行のブログを書き、静かな旅を選ぶ。
これは世界から消えたいという話ではありません。削られずに存在できる場所を探している、ということです。

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