静寂を切望する自分と、生存戦略としての発信。

厄介なせめぎ合い

静寂を切望する自分と、生存戦略としての発信。のサムネイル画像

静かなのがよい。そう思うことが増えました。
今の私にとって理想的なつながりとは、何か厚いフィルターを通した先にある、アバターが私として振る舞うような形です。親しい人を除いて、本当の私はよくわからないという希薄な関係性こそが、今の私にはちょうどいい。常識を押し付けてこようとする他者から自分を守るには、物理的にも精神的にも接点を最小限にするのが最適解なのです 。

以前も書いた通り、このブログにコメント欄を設けていないのも、SNSをほぼやめてしまったのも、すべては「人間というノイズ」を遮断するための防壁です 。

最近、実験的にBlueSkyのアカウントを作成し、ブログのエントリーを機械的に流すようにしてみました。しかし、そこで誰かと交流するつもりは毛頭ありません。理想は「一方的な垂れ流し」です。他者の声を聞けば迷いが生じ、感情的に疲弊してしまいます 。耳を塞ぐという行為すら、今の私には過分なコストです。だからこそ、最初から声が届かない場所へ身を置くことを選んでいます。

ものを作ることは嫌いではありません。しかし、そこに「承認されたい」という発想は欠落しています。評価は他者が勝手に下せばいいことで、私が関知する範疇ではないからです 。

ただ、厄介なのは自分の中にある矛盾です。静けさを切望する自分と、海外移住を見据えた「収入の柱」を作るために、何かしらを表に出そうとする自分がせめぎ合っています 。超絶的に保守的な前者が、生存戦略としての後者の足を引っ張る。この自分であって自分でないような感覚は、実になんとも面倒なものです。

思考を止めるには生命活動を止める以外に方法はないのではないか。ふと、そんな極端な考えが頭をよぎることがあります。「生きることは病であり、眠りはその緩和剤、死は根本治療である」という、かつて真理だと信じていたあの暗い諦念の場所に、また引きずり戻されそうな感覚。
静寂を守るための防具を、もう少し補強する必要があるようです 。

孤独はリスクだと言われますが、望まないつながりで摩耗し続ける人生こそが、真のリスクだと思う。幸い、今は私を受け入れてくれるパートナーに恵まれているけれど 。

0%